ひとり言 (vol.5)

               ◆ さようなら、あんず ◆              Close


 返事の無い、決してこたえてもらえない、さようならの挨拶。悲しいものです。舞踏家古川あんずさんへのさようならの言葉です。あんずが突然逝ってしまったのは昨年の秋のことです、でも気が重くなかなかさよならが言えませんでした。私のプロフィール欄、その第1作は、のちに私が日本舞踊への道を歩むようになるとは到底想像のつかない舞台でした。
 1974年5月16、17日の両日、ドイツ大使館の文化施設、OAGホールには、建設工事に用いられる丸太で組み立てられた櫓のような梁がいくつか建てられました。運び込まれた大量の土と土嚢の花道が客席を貫き、天井からは梁を吊り上げる滑車や太いチェーンが吊り下げられ、舞台背景には漁網や海藻までが張り巡らされました。こうして東京ゲーテ・インスティトゥートの主催する第13回現代音楽実験コンサートの会場はまるで作業場のような非現実的な空間へと変貌させられたのです。
「少女過激団」公演『大観念オペラ・猿女譚』の舞台です。
薄暗い会場のいたるところに、開演前から絶え間なく、水の滴る音が響いています。この水滴は上演中も決して途切れることなく、終幕では滴り落ちた水すべてが巨大な渦巻きとなって、轟音とともに空中にさかのぼってゆくのです。
冒頭、薄気味悪い化粧をほどこした2mを越す巨大な女たちが登場、長く薄汚い着物をまとって、塚本邦雄による定型詩劇「ハムレット」のセリフをわめき散らします。女たちは突然崩れ落ちたかのように見え、実は肩車をしていた男たちの首にぶら下がります。衣裳は脱ぎ捨てられ、男も女も半裸体と化し、地を這い、泥を舐め、やがて舞台の上に君臨する半獣半神の足元にすいよせられ、群がってシュールな彫像を形づくります。
 ここまでは導入部のほんのあらましです。(詳しくは‘74年音楽の友社発行の『音楽芸術』7月号富樫康氏の記事をご参照ください)これだけでも当時としては、かなり常軌を逸したエキセントリックな公演だった事が想像されると思います。「少女過激団」は桐朋音大の作曲科に在籍していた古川あんずによって73年に旗揚げされました。メンバーは明大、早稲田、東大、東工大、造形大、ICUといった様々な大学の学生達で構成されています。その頃、国立音大で楽理を学んでいた私は、ジョンケージ等当時の最先端の現代音楽作品に触れ、各種の実験的なパフォーマンスに参加していました。そんな矢先、学園祭のステージに立っている所をメンバー物色中の、あんずと千春さん(作曲科の1年先輩で、もちろん過激団ダンサー)にスカウト(?!)され、私は運命のその一歩を踏み出してしまったのです。
 その頃は、麿赤児氏率いる舞踏集団「大駱駝艦」が大変な勢いで伝説的な舞台の数々を展開していました。それまでの舞踊の常識をことごとく打ち破った舞台、肉体のすべてをさらけ出した迫力のある舞踏に多くの観客が魅せられ公演は何時も超満員でした。最初、駱駝艦は男性だけで演じられていましたが、やがて女性も参加するようになり、あんずも麿さんのもとに弟子入りが叶いました。その一方少女過激団の旗揚げ公演も企てたあんずは、駱駝メソードとムチを両手に(残念ながらアメは手にしていませんでした)私達を舞踏手へと変身させて行ったのです。
やがて、福生にあるアメリカンハウス(駐留米軍の官舎を民間に貸し出していました)を合宿所と定め、いよいよ活動を本格化しました。表に看板を掲げたとたん警察の方が職質に見えたというエピソードがあります。そりゃそうですよね、70年安保が過ぎたとはいえ、まだまだ過激派の活動が盛んだったあの当時、「少女」の二文字を冠しているとはいえ、他でもない「福生」でいきなり「過激団」ですから。
 60年安保を小学生の時に強烈に印象付けられながら、70年安保には少し遅れをとった私にとって、激動の70年を立川高校で迎え、その女性闘士の一人として過ごしたあんずの考え方、生き方はかなり強烈なものでした。会った瞬間に得体の知れない不思議な魔力に強く惹かれていったのを良く覚えています。周りを囲む人間模様も多種多彩で、女生徒の数が圧倒的な音大とはまったくの別世界でした。早稲田の図書館を占拠して逮捕され、かの有名な小菅を経験したメンバーも居ます。理論家で語り上手な彼の口からワイルドの小説を聞いて皆で涙を流したこともありました。H君、あなたです。
 それぞれがバイトで稼いだお金、そして何から何までを持ち寄って公演に向かって爆走しました。仲間を増やすために出演者のオーディションまで行いました。但しこのオーディションに応募してきたのはたった一人、後に舞踏集団「白虎社」のダンサー、そして主宰者の大須賀さんの細君となられた蛭田早苗さんその人でした。私の音大の学友達もダンサー、衣裳方、道具方と次々駆りだされました。潮子にひさちゃん、そして玲ちゃんご苦労様でした。
 公演は大変な反響を呼びました。初日は七分くらいの入りだったのですが、翌日には隙間無く観衆が床を埋め尽くし、壁にも人垣が出来たほどです。臭気と熱気にむせ返るような会場で猿男、猿女の乱舞が次々と繰り広げられました。私が演じたのは半獣半神の異形の彫像、やがて地に落ち混沌の中でうごめく人々の中に取り込まれてゆきます。終幕ではあんず演じる人体解剖模型、左半身の皮をはいで筋肉や内臓のあらわになった人間が現れ、すべての混沌を砦の上へと導いてゆきます。休憩も無く2時間あまりその物語は続きました。批評家の富樫康氏は後の批評の中で「音楽のゲバルト」とこの公演を評しました。
 しかしその後、あんずは駱駝艦の主要な女性舞踏家としてめきめき頭角を顕わし、もはやアマチュアである我々とは次元の違う世界へと羽ばたいてゆきました。あんずの飛翔の代償に少女過激団はたった1回の旗揚げ公演を最後に幕をおろしたのです。今尚、幻の少女過激団と称され、あまたの人々がその復活を望んでいる………というのはウソですが、(失礼)あれだけの公演を打ち上げてそれっきりというのも逆に凄い!という気がします。
 駱駝の女性メンバーによる「アリアドーネの会」、田村哲郎氏との「ダンス・ラブマシーン」などを経てあんずは独自の舞踏の世界を作り上げてゆきました。そして海外へ進出、特にドイツを中心に活躍、ときおり日本帰ってきてはプロからアマチュアまで幅広く指導に当たり、また多くの作品を作り、今は無き渋谷のジャンジャンで公演をして常に女性の舞踏家の最先端に居ました。何時の間にか同じ舞踊とはいえ、ジャンルの違う世界に身をおくようになっていた私は、あんずとは以前のように密接にはつながっていませんでした。でも時折公演に訪れては、あんずの踊りの変化をつぶさに観、そして感動してきました。のちにピナバウシュの公演を初めて観た時(カーネーションが舞台いちめんに咲いていました)、その踊りにあんずの影響を大いに感じて、一人客席で誇らしく思ってしまいました。思えば、あんずや山海塾の天児さん達を筆頭に数え切れないくらいの駱駝のダンサー達がヨーロッパのダンスに影響を与えたと思います。
 ヨーロッパでワークショップをして、かの地のダンサーや俳優とおしゃべりをすると必ず天児さんやあんずのことが話題に上ります。友人であることを誇りに思う瞬間です。そのあんずが近年はドイツに活動の本拠を移し、ベルリンとその近郊の都市を中心にして舞踏やその教授を行っていました。昨年7月私が参加した「アジア演劇の女形芸」が好評でヨーロッパでの公演が実現しそうだと聞いた時、今度こそベルリンであんずに会えると思いました。
 しかしその頃、あんずは病魔と戦っていました。2000年に舌癌に襲われ、手術を行ったものの再発し闘病生活を送っていたのでした。立川高校の同窓生達には状況が知らされており、有志の人たちが様々な形で支援を行っていたそうです。残念な事にその甲斐も無く、2001年10月23日、あんずはベルリンで息を引き取りました。そして驚いたことにずうっと長く臥せっていたにもかかわらず、死の20日前、モルヒネで痛みを抑えながらあんずは前から予定されていたパフォーマンスをやり遂げたそうです。それはあんずの真骨頂とも言える奇跡のような素晴らしい踊りだったそうです。まさに闘士、そんな言葉が思わず心をよぎりました。
 夫君である美術家の横尾さん、すっかり成長し立派になった娘のだんすさんと、息子の杏太君に抱かれてマイセンで荼毘にふされたというあんずの遺骨は秋の深まった東京に戻ってきました。そして11月11日、28年前に我々が公演を行ったまさにその思い出のOAGホールで、お別れの会が催されたのです。何度も共演したジャズの山下洋輔氏、恩師麿赤児氏、立高同窓生の方、お別れの言葉はどれも皆、とても、とても心のこもった熱いもので今更ながらあんずの人生がいかに素晴らしく、多くの人に愛されてきたかを物語っていました。
 いろんなことが思い起こされます。ラブマシーンの頃、田村さんとあんずが私の実家近くのホテルに営業のショーで来ました。その頃、駱駝艦の収入源はもっぱら地方のキャバレーやホテルでの金紛ショー、エロチックダンスでした。弟のちかし君と二人で東京から駆けつけ、私の両親や祖母も誘って皆で観に行きました。始めて観たあんず達のショーは、決して営業用のいいかげんなものではなくとってもストイックで美しいショーでした。その夜は父が張り切って、上山田の飲み屋街へ繰り出しました。63歳で早々に逝ってしまった父と、とことん飲んだ数少ない思い出の一夜です。
学生時代から十数年住み慣れた押上から四谷左門町に移った時に、パーティをひらきました。たくさんの友人が来てくれましたが、宴が盛り上がる中、いつの間にかあんずのピアノで、フラメンコの小島章司さんがイタリア歌曲を歌っていました。ちなみに小島さんは武蔵野音大声楽家出身です。
少女過激団の頃、稽古の合間に千春さんとあんずがフォーレの「ピィス・キ・シ・バ・トゥ・ターム」を練習していました。声楽実技の試験曲だったようです。私も一緒に混ざって歌いました。美しい天使の唄うメロディです。それ以来、時折口をついて出るとても好きな曲の一つになりました。
 あんずの名前の由来がフランス語でアンジュ、天使という意味だったと知ったのは悲しいことにお別れの会でのことでした。いろんな思い出を胸に、思い切って言います。
 さようなら、あんず。またいつかどこかでお会いしましょう。そして今度は二人だけで一緒に踊ってみましょう。


2002年 如月さいごの火曜日

チェット・ベイカーのマイ・ファニー・バレンタインを聴きながら


                  五條珠實                  Close